歯の根も合わない寒さだったのは、ついさっきの事。 なのに、今は指先も脚の指までポカポカと温かいように思えてきた。もとより、身体の自由が効いてはいない。身動きひとつとは言わないまでも、固定されている両手と両足には期待は出来なかった。 微かに聞こえる機械音はエアコン。水を吸っている衣服は冷気を貯め込み、体温を吸う。 どうしてこんな処にいるのか、それすらも思い出す事が出来ずに、響也はふっと息を吐いた。吸い込む空気が喉に痛い。 咳き込んで大きく体が仰け反った事で、一時的に意識がはっきりと戻った。 …喧嘩してたんだっけ、アノ人と…。 思い出した事を(こんな状態だというのに)酷く後悔してしまう。頭から引き剥がしたい願いとは裏腹に、そんな部分の思考だけははっきりと戻ってしまい。響也の頭は現状ではなく、それに捕らわれた。 眠りに誘われないだけでも幸いだったけれど、時間の問題という奴だろう。 そんな究極の状態で、思い出したのが(胸が悪くなる喧嘩)とは、余りにも情けがなさすぎる。 「…成、歩堂さ、…。」 それでも、紫色に変わった唇から出た名前は、不思議と熱を帯びて感じた。 ピリオドの気配 「変わってるよね。」 バサリと新聞を折り畳んだ音と共に、自分の向かい側から顔を覗かせる。 朝見ても、昼見ても、夜見ても、顎に無精ひげがある男は口端を引き上げた。朝刊に載っていた(何か)が彼に(何か)を思わせたらしい。 響也は飲みかけの珈琲を諦めて、成歩堂に視線を向けた。 謎掛けのような会話は、うっかり聞き流すととんでもない流れへと発展する可能性があるからだ。それだけ、成歩堂龍一という男は、一筋縄でいかず、だからこそ響也の興味を引く人物だった。 「何が?成歩堂さんの事?」 すかした笑みで返してやっても、表情ひとつ変える事などない。 「いや、君の話。現場に出るって事が。結構刑事さん達に嫌われたりしないのかい?」 「嫌われてるんじゃないのかな、刑事くんに。」 「茜ちゃんにじゃあないよ。刑事さん全般。」 …朝から喧嘩でも売るつもりなんだろうか。 響也は少しばかりムッとした表情を見せた。 実際、成歩堂は自分の意見を響也に納得させたいらしく、常なる様子を浮かび上がらせる事はなかった。法廷で出合った時の彼と同じくしつこく言葉を重ねてくる。 調子が戻ってきたと言うべきなんだろうかと、響也は不機嫌なりに相手の感想を頭に浮かべた。その間に、成歩堂はふたりの間にあるテーブルに身を乗り出す。 新聞は彼の横に畳まれ、原因を探る事を響也に可としなかった。 「アノ人達は現場に検事がウロウロするのを嫌がるだろ?刑事と検事の信頼関係を損ねるなんて言う人間もいるしね。 ただでさえ、目立ってるんだからさ君は。」 「だから、何? 現場に行くのをやめろって言うつもり?」 「平たく言えば、そうかな。」 一度目を閉じて、言葉を告げてから成歩堂はしっかりと響也を見据える。ゆるりと向けられる視線に響也はどきりと心臓を鳴らす。 気怠そうに椅子に寄りかかる仕草も妙な色気があるが、こうして真剣な表情を向ける彼はその服装にも係わらず酷く格好が良い。 「それは、聞けない。」 だから、たったそれだけの反証をするのに、響也の言葉は喉に絡ませた。 「こうして僕が頼んでるのに?」 「…っ、何処が頼んでるんだか…。」 顎の前で両手を組み、にこりと成歩堂が微笑む。この笑みに響也は弱い。思わず見惚れて、それ故に言葉は乱暴になった。 現場に出るのは初めての法廷を終えた後の、響也の誓いだった。 奢っていた自分をあの裁判で思い知らされた事も原因だったが、成歩堂を失脚させ、なのに結論も出る事がなかった出来事が響也に焦燥感を植え付けたもの理由だった。のちに長く法廷に現れなかったと裁判長に揶揄される事になった一環でもある。 自分に真実があるのか、僕は真実を見ているのか。 兄や相棒を告発する事が出来たのはその『誓い』に後押しされたから成し得たのだとも言えた。 「僕は、真実以外はいらない。」 目前のパーカー姿が、一瞬青いスーツに変わる。 迂闊に証拠を出した僕に原因はあるのさ。そう告げて、響也を責めなかった男に本当の原因があったはずもない。 その響也の揺れを成歩堂はすぐに見抜いたようだった。 笑みを崩し、眉を潜める。組んでいた手をほどき響也に手を伸ばした。 「もう済んだ事になってる。君は…」 暖かな指先に触れられる事を恐れ、響也はその手を弾いた。 そうしてあっと顔を顰め、成歩堂から視線を逸らす。何度か名を呼ばれて、でも罪悪感から逃げるように隣の部屋へ入る。 もう、時間だ。出掛けなければならない。 思考の全てを、成歩堂の気遣いも振るい落とす。でも、せめて不機嫌な表情で別れたくない。 笑みを作ろうとした響也は、部屋の前で待っていた成歩堂の腕が強引に絡み付く。有無を言わさないと瞳が響也を見つめた。 卑怯だ、こんなの…。言葉で説得出来ないなら、身体なんて。 それでも、昨夜の余韻を残す身体には簡単に快楽の火が灯る。最初は直接的だった愛撫が物足りなさを感じるようになってくれば、響也が折れるしかないと知っているのだ。溺れた身体は成歩堂の要求を容易に受け入れてしまう。 悲しみに似た怒りが湧いたのは、その直後だった。 「冤罪なんて僕は……アナタなら、わかってくれると思ってた、のに…。」 羞恥に火照りながら、それでも眉根に皺を寄せて自分を睨む碧眼に、成歩堂は響也を開放する。 無言で服を整えて部屋を出た響也を見送って、成歩堂も小さく息を吐いた。 「…単に心配、してるんだけど。うまく伝わらないなぁ。」 成歩堂はぼそりと呟いて、テーブルに置いたままの新聞に視線を戻した。そこには、昨夜起こったらしい殺人事件の記事が載っていて、凄惨な現場の様子が生々しく書かれている。犯人もほぼ現行犯逮捕だったらしいと記されていた。 響也の案件になるかもしれない。 そう感じた自分に浮かんだのが、彼の身の安全だったのだから仕方にない。現場で捜査をしていて、真犯人に襲われ証拠を奪われた事もあるし、助手を拉致された事だってある。(おまけに法廷でも消火器で後頭部を強打された事もあるのだ!) つい響也に触れてしまう自分が悪いのだと気付かない成歩堂は、主のいなくなった部屋を見回し溜息をついた。 部屋が居心地がよくつい長居をしてしまうが、それもやはり響也という存在があってこそだ。彼を怒らせてしまっては、本末転倒も甚だしい。 どうしよう…成歩堂は無精髭の生えた顎を指で掴み、考え事を始めた。 content/ next |